
共依存とはなにか
人へ依存するという形
共依存というあまり嬉しくない関係性があります。それは、恋人、夫婦、親子など、近い関係の中でおきることが多いです。
依存がまったくいけないというわけではありません。誰しも誰かに少しずつ依存しながら生きています。
ただ、その依存の関係性が、相手がいなくては自分の存在意義が感じられなくなってしまうようなものになると、病的な状態に入ったと考えられると思います。
*共依存の由来ーアルコール・薬物依存
共依存ということばの由来は、元々アルコールや薬物依存の患者とパートナーの関係をさすことばとしてアメリカで使われるようになりました。
たとえば、アルコール依存の患者の場合、パートナーである夫/妻はきっと自分の力で更生させてあげたい、パートナーとしてアルコール依存のあの人を支えていくのが自分の使命だと考え、献身的に尽くせば尽くすほど、患者はアルコール依存症から脱することができなくなります。
つまり、患者は自分がアルコール依存から脱してしまうと、パートナーが果たす役割や生き甲斐を奪ってしまうことになるため、アルコール依存を止めることができなくなります。
献身的に尽くしてくれるパートナーに支えられながら、患者は安心してアルコール依存を続けることになります。
具体的には、患者が自身で解決しなければならない問題を、パートナーが解決してあげてしまう。
アルコールを飲む量を夫が自分で管理するかわりにパートナーが管理する。飲みすぎてキッチンのテーブルで眠ってしまった時には、パートナーが起こしに来てくれて布団まで導いてくれる。
寒くて目が覚めて、風邪をひいて、こんなことではいけないと自分で気づくチャンスを支援者が意図せず奪ってしまうわけです。
患者は、飲酒後に床で寝て風邪をひく、脱いだ服は脱ぎっぱなし、茶碗は洗わない、酒ビンが転がっている…それを素面の時にみて、これではいけないと気づく必要があるわけです。
アルコール・薬物依存の患者の家族は、患者と一定の距離を置く必要がありますが、健全な距離とはどんなものなのか、なかなかわかりません。
*共依存の本質的な問題構造
患者はアルコールに依存し、パートナーは患者自身に依存し、患者自身も介護・介助するパートナーに依存してしまう。
こうした共依存者は一見して献身的で自己犠牲的であるように見えるが、実際には患者を回復させるような活動を拒み(イネーブリング)結果として患者が自立する機会を阻害しているという自己中心性を内包しているといわれています。
この献身的で自己犠牲的な態度が問題であると指摘されると、両者は苦痛や徒労感や無力感を覚えることもある。
他者から共依存を指摘され、この関係を否定されたり責められたりすると、強烈な自己否定感から精神的な安定を求めて更に強い共依存の関係に入ろうとする場合があるので、冷静に考えなければなりません。
全国にアルコール・薬物依存の自助グループがあり、家族会も定期的に開かれています。そういったところで、対応の仕方を学ぶとよいでしょう。

親子の共依存
*親子の共依存
アルコール・薬物依存と同じ構造で、親子の共依存の関係があります。これはアルコールや薬物依存よりももっと頻繁に起こりますし、身近な問題です。
依存はどこにでもあります。健全な依存というのもあります。しかし、こどもが引きこもりになっている、成人しているのに自活しないケースなどは、保護者の関わり方に問題がないか、あらためて考える必要があるでしょう。
問題の構造はアルコール・薬物依存と同じで、一見すると献身的に見えます。
共依存者は「だって私が見捨てたらあなたは生きていけないじゃない」などの発言をすることが多いようです。
行きすぎて他人の世話をすることは、結果として当人の能力を奪い、無力化し、その人の生殺与奪を自分次第とする支配になる。
愛情という名の元に「完璧に支配しているという快感」を得たいというエゴイズムが隠されていると考えられています。
世話をすることで、本人が必死になればできる能力も奪う結果になっている場合は、健康的な依存ではなく、共依存の関係と捉えることができます。
共依存に入る保護者も、やはりこども自身に小さな頃から自分で責任をとらせず、親が常に責任を肩代わりしながら育ててしまい、こどもは自分の力で自分の責任を果たす経験を積んでおらず、社会へ出ることを恐れるようになるといったことがあげられます。
こどもが自由に選択する権利を奪ってしまう。こどもは、親であるお母さんやお父さんが大好きです。
ですから、自分の選択の権利が奪われても、親を許そうとし、従うことを選びます。大好きなお母さん・お父さんのために、何も自身で選択しない、自身で責任を持たない、ダメな自分でいようとするのです。
そしてそのまま成人するうちに、最後には自分をダメにした親に「ダメな自分でいることで親や世間に復讐する」というスタイルに入ってしまいます。
*ではどうしたらいいのか
こういった問題を解決するためには、小さなことからはじめるのがいいかもしれません。
卵焼きに醤油をかけるかかけないか聞くのをやめて、ほうっておくのです。醤油をかけるかかけないかの選択肢があることに自分で気づき、行動を起こせば、自分の好みの味をつけることができるとわかります。
どの遊びを選択し、何を捨てて何を取るのか。どの学科を好み、どの大学へ行くのか。そしてどんな仕事についてどんな人生を歩むのか。
それは親から見れば誤った人生かもしれない。非効率きわまりなくて、不幸の連続に見えるかもしれない。
しかし、お腹が空いていない時にご飯を食べてもなんのありがたみもなにもないものです。当たり前に時が過ぎていくだけ。空腹に泣いて、悲しみにくれて、はじめてご飯が美味しいと感じ、幸福を感じる瞬間があるかもしれない。
何を学び、どう生きていくのか。失敗しないことを目的にしてしまう予定調和な人生に、やり甲斐や生き甲斐があるでしょうか?
どうしたらいいか、あなたにもわかるはずです。
こどもには成功する権利もあるけれど、失敗する権利もあります。失敗するというチャンスを奪わず、その先の成長を願う気持ちを持てるようになるとよい距離感になれるかもしれません。
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